武雄神社

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武雄神社
宗派 神社神道系 神社本庁
住所 〒 843-0022
佐賀県武雄市武雄町大字武雄5335
TEL 0954-22-2976
FAX 0954-22-3517
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【御祭神】
武内宿禰【たけうちのすくね】
武雄心命【たけおこころのみこと】
仲哀天皇【ちゅうあいてんのう】
神功皇后【じんぐうこうごう】
応神天皇【おうじんてんのう】
五柱の神を総じて武雄大明神と号します。
主祭神である武内宿禰は、政治を補佐する大臣として5代の天皇に仕え、実に360歳を誇る日本一長寿の神様として知られています。
更に当社に於いては、武運長久、開運、厄除けに霊験あらたかな神様として信仰があり、壇之浦の戦いでは頼朝より平家追討祈願の御教書を賜り、元寇の乱では伏見天皇より異国降伏の綸旨を賜っていることから、その信仰の篤さを伺い知ることができます.
【由緒】
『武雄神社本紀』によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとあります。これにより同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽(船の艫)に鎮座し創祀されました。 而して天平7年(735年)初代宮司 伴行頼に『吾は武内大臣である。艫には住吉神がおられ、艫嶽に祀られていても畏れ多く落着かないので、幸い軸嶽に自分を祀るならば、末永くこの地に幸福が訪れるであろう。』との神託がありました。行頼は太宰府を通じて朝廷に奏請し、武内宿禰を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武雄心命を合祀し北麓に遷宮したと記されています。
平安中期には、武雄神社の祭礼に国使が参向しており、杵島郡の鎮守として郡民の崇敬をうけていたばかりでなく、肥前に於ける名社として深く重んぜられていました。
元永年中(1118~20年頃)武雄二代領主 後藤資茂が、朝夕秀麗な御船山の麓に鎮座する武雄神社を望み、築城の適地と思い、朝廷に奏請して当社を舳嶽東麓(現在地)に遷しました。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは、源頼朝が当社に密使を使わせ平家追討祈願をしました。平家を滅ぼした頼朝は、勝利を武雄神社の神徳によるものと感じ、後鳥羽天皇の勅使と名代の御家人を赴かせ『御教書』を送り深謝しました。 この参詣を歓迎して、武雄四代領主の後藤宗明が流鏑馬を奉納し、以来、氏子のてによって『武雄の流鏑馬』は、八百年以上ものあいだ連綿と継承されています。 また、これを機に武雄神社と源氏との関係は極めて密接となり、神社として将軍家の祈祷に当たる関東御祈祷所の使命と、社家として御家人の使命を有し、二重の立場に於いて活動することになりました。
鎌倉中期の元寇では、未曾有の国難に際し、伏見天皇より異国降伏の祈祷の『綸旨』を賜る光栄に浴するなど、国家的な存在でありました。本紀によれば、文永の役の十月二十日の夜、武雄神社の神殿から鏑矢が元軍船目掛けて飛び、元軍は逃げていったとしてあり、また、弘安の役では上宮から紫の幡が元軍船の方に飛び去って、大風を起こしたとあります。この霊験により『九州五社ノ内』と称され、九州の宗社として隆々と栄えた時代もありました。
現在では武雄の氏神社として、また樹齢三千年のご神木を祀る神社として、氏子はもとより全国各地から広く信仰を集めております。

武雄神社の背後には、御船山の神奈備(神が隠れ住まう山)があります。 本殿裏の竹林を抜けると眼前が開け、そこには3000年の悠久の時を経て今もなお未来永劫に生き抜こうとする大楠が姿を現します。荘重で威厳に充ち満ちた力強さに、畏敬の念を抱かずにはいられません。
【大楠情報】
樹齢3000年
根回り26m
根元の空洞の広さは12畳敷 高さ27m
平成元年の環境庁の調査では、全国で6位の巨木

寺社からのメッセージ

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